知っておくと能をもっと楽しめる能楽にまつわる豆知識。
-
屋内の能楽堂で上演される能よりもさらに幽玄な世界観を楽しむことのできる薪能は、平安時代中頃に、奈良の興福寺で開催されたものが起源とされています。そして、この薪能にかかせないものが「かがり火」です。かがり火は、照明としての効果はもちろんあるのですが、それ以外に、能はもともと神前や仏前で奉納するために舞われてきたものであり、かがり火は神聖な灯明としての役割もあるのです。ですから、正式な薪能では、神社の神主や寺社の住職によるお祓いや、「火入れの儀式」から執り行われます。
-
能をなかなか楽しめない理由として、古い言葉づかいで内容がよく分からないということがあるかもしれません。それもそのはずで、能は今から600年ほど昔の室町時代に活躍した世阿弥が中心となって、彼らが生まれるまでに書かれた日本文学の古典や民間伝承を基にして書かれたものが多く、現代の人にとっては見ても、聞いても分からないのは仕方のないことなのです。それなので、能を見る前にあらかじめあらすじを把握してから見ることをおすすめします。ただし、元湯石屋で行われる薪能では、能をはじめる前にあらすじを紹介いたしますので、予習をされなくてもお楽しみいただけると思います。また現代語訳された能の出典となった古典作品を読んでから能をご覧になればさらに能を理解できると思います。
-
宝生流の能は全部で180番あるのですが、そのなかの36番ほどが『平家物語』を題材としており、これは他のどの古典文学よりも多いです。これは、能が武家社会のなかの儀式能(式楽)で使われてきたことに由来します。武士社会では、常に戦場のことが頭のなかにあるわけで、戦場での武士の活躍や、生き方や死に方の描かれた『平家物語』が歓迎されたのです。だから逆に、もし貴族社会の人たちが能に熱中していれば、『源氏物語』などを題材にしたものがたくさん作られたかもしれません。また『平家物語』を出典とする演目が多いなか、平清盛が登場する演目は現在一つも残っていません。これは鎌倉、室町、江戸と清和源氏の流れを汲む時代であったため、平家の隆盛を極めた清盛の話は受け入れられなかったからだと思われます。
-
今演じられている能の演目は、室町時代にあった600番ほどの曲が、江戸時代頃までに各流派によって200番ほどに絞りこまれたものなのですが、明治以降、新作能も次々と作られています。例えば石川県で言えば、あまり知られていないのですが、『兼六園』という曲や、『加賀の千代女』という曲もあります。また最近では、江戸期に廃曲になったものを復活させようという動きがあります。ただ、現代の人にも分かるような口語体での能というのは、厳しいルールのある能楽では難しいかもしれません。
-
能の基本動作のひとつに、中腰で体の重心を低くして、かかとを浮かせないようにつま先だけを上げて歩く「運び」があります。これは、シテのつけた面が歩くことでブレないようにするために、相撲や柔道、剣道などでも見られる日本の伝統的な歩き方「すり足」が取り入れられたものです。そしてこの能の「運び」の所作などが取り入れられたのが、茶道の礼儀作法だと言われています。
-
能の主役を演じるシテは、いつも面をつけているイメージがあるのですが、シテが面をつけないで演じる演目もあります。代表的なものが、歌舞伎の『勧進帳』の元にもなった、弁慶や義経らが登場する『安宅』です。この『安宅』の他にも何作かシテが面をつけない作品があります。逆に、生きた男性の役を演じるワキ方は、面をつけることは一切ありません。また、面をつけないことを「直面(ひためん)」と言います。
-
能舞台の正面の羽目板に老松が描かれる理由には諸説あります。むかし奈良県春日大社で神事として能が奉納された際に「影向(ようごう)の松」の前で能が舞われたことに由来するという説や、松は針葉樹であることから常に青々と繁り根もどっしりと生えることから繁栄の象徴とされ、また「神を待つ木」と言われてきたことから御神木として松を描いたという説、そのほか、徳川家の旧姓が松平であることから、将軍家がお抱えの御用絵師に盛大な松の絵を描かせたことに由来するという説もあります。
-
一本の老松が描かれることが一般的な鏡板ですが、なかには例外もあり、横浜能楽堂の鏡板には老松とともに白梅が描かれています。これは横浜能楽堂の能舞台がもともと加賀藩十三代藩主前田斉泰の隠居所の能舞台であり、加賀藩の紋であった梅鉢にちなみ白梅を鏡板に書かせたものでした。また名古屋能楽堂では若松と老松の二つの鏡板があり、隔年で入れ替えられています。
-
本舞台と楽屋でもある「鏡の間」との渡り廊下になっている「橋がかり」は、橋のように欄干があることから「橋がかり」と呼ばれ、歌舞伎の花道のルーツとも言われています。この橋がかりは本舞台の延長して使われ、この橋がかりの上でも演技がおこなわれます。そして、橋がかりは、能楽師が人間世界である「鏡の間」から別世界である「本舞台」へ歩むための渡り廊下ともいうべき役割があるのかもしれません。また、橋がかりのそばに置かれた大小の松は、本来、橋がかりをはさんだ裏側にもあるもので、元は6本の松が植わっていました。
-
「カーン」といった高い音を響かせる大鼓。これは演目がはじまる2時間ほど前から火鉢で鼓の皮を乾燥させ、その皮をきつく張ることで硬質な音が出るようになるのです。通常は指皮をはめてこの鼓を打つのですが、稽古を積んだ人は素手で打つこともあります。ただ、誰でも簡単に高い音を響かせられるといったものでなく、シテ方、ワキ方、囃子方がそれぞれの役割を替えて演ずる乱能をする際、あまり大鼓を打ったことのない人が大鼓を担当すると、「ボコッ、ボコッ」とにぶい音が響くこともあります。
-
シテ方は、能の主役でもあるシテを演ずる他に、地謡や後見も務めなければなりません。とくに後見は、今の演劇でいうところの舞台監督のような存在であり、1曲すべての台詞が入っていないと務まりません。舞台がはじまる前に楽屋で役者に能装束を着せたり、舞台がはじまれば小道具や作り物を舞台に運んだり、役者の装束の乱れを直すのも後見の仕事です。また、滅多にあることではないのですが、能を演じている最中にシテの具合が悪くなった場合、後見の一人が扇一本で代役を務めることもあります。
-
明治維新によって廃れてしまった能を復興させようと尽力した一人が加賀藩十三代藩主であり中納言にも任じられた前田斉泰です。明治維新のあと、欧州の視察へ行った岩倉具視はヨーロッパのオペラに感激し、日本の歌劇である能を再興させようと能楽社を設立します。この能楽社を設立した発起人の5人のうちの2人が前田斉泰・利鬯(としか)親子でした。能楽社は能楽復興のシンボルとして屋内型の能楽堂の先駆けともいえる芝能楽堂を創建。そしてその芝能楽堂には前田斉泰がしたためた『能楽』の額がかけられ、現在、靖国神社能楽堂でその額を見ることができます。また元湯石屋では、前田斉泰の正室・溶姫(徳川家斉の娘)が徳川家から輿入した際にお持ちになった化粧道具を展示しております。
-
石川県立能楽堂では、若い人をはじめ多くの人に能をたのしんでいただきたいとの思いで、夏9回、冬2回の年11回、前売り券1000円(当日券1200円)で見ることのできる『観能の夕べ』を開催しています。能の作品のなかには物語を省略する場合もありますが、能一番と、狂言一番をご覧いただけます。ユネスコの無形文化遺産となった日本の伝統芸能を、肌で直接感じることのできる絶好の機会です。
公演予定はこちらから(金沢能楽会 - 能楽カレンダー)
「能の豆知識」は金沢能楽美術館館長・藤島秀隆さんに教えていただきました。